2011年3月28日月曜日

Aftermath of the Earthquake

Summar:For the past two weeks, I was impressed by the word “Sougofujyo” in Japanese which means to help one another.
There are over 19 million people at the evacuation places such as city halls, schools, hospitals and so on. They are helping each other politely to live with no fights everyday.
We are having many supports from 133 countries plus 39 international organizations. I am very glad to hear this news on the website of Ministry of Foreign Affairs of Japan.
I watched on TV that the New Jersey elementary 3rd graders sang “We are the World” for Japan. This will be encouraging the people which are at the evacuation places.
It is a panic buying water bottles, rice, canned foods, toilet papers and gas and more and more around Tokyo.
We have a serious concern about the nuclear power plant which was affected because our lifelines are impacted by the accident related to the electric power, water and more in the future ...
We have to share the right information and take right actions to live safely.

東日本大震災から2週間が経過しました。毎日、テレビやインターネットでは震災に関する様々な報道がされていますが、“相互扶助”という言葉がとても印象に残りました。

現在も避難所には19万人以上の人々が一時的な生活を余儀なくされています。東京23区の人口と比較すると、港区や渋谷区や荒川区に値する規模です。その数を知るだけでも、そこで生活している数多くの方々の不便さや不満や不安などを始め、底知れない苛立ちをも察することができます。

今年は春の訪れが遅く、東京でも未だにダウンジャケットやマフラーが必要なくらいの真冬並の寒さです。被災地の天気予報では気温が氷点下を示しています。きっと体調を崩されている方の数は日ごとに増加していることだと思います。
病院の復旧も遅々として進まないなかで、廊下で治療を受けたりベッドではなく床に横たわる方々の姿がとても痛々しく伝わって来ますし、その状況の中で必死に医療活動を行う先生方の様子もメディアを通して伝わって来ています。薬不足も深刻な問題になっています。

救援物資が直ぐには届かず、自分たちの手で立ち上がろうと、家にある食材を持ち寄り、おにぎりや温かいお味噌汁を数百人分作っている被災者の方々の姿がテレビに映し出されていました。その時点で、多くの方々のご家族や親戚や知人など行方不明で気も休まることのない状況でも、人々は助け合い、懸命に一歩ずつ前へ進もうとしている姿に感銘を受けました。

震災直後に日本国内に限らず世界中から被災地へ支援の手を差し伸べる動きが始まりました。地震のあった翌12日には世界の50もの国から、それがさらに広がり、世界の133の国・地域および39の国際機関等から支援の申し入れがあったということを外務省の報道(2011年3月25日 23時00分現在)で知り、自分のことのようにとても嬉しく思いました。

海外の様子を伝えるテレビ番組では、復興への願いを込めて折り紙300枚分の鶴を折っている映像や、ニュージャージー州の小学校の3年生100人が、日本の国旗をイメージした赤と白のTシャツを着て、“We are the World"を歌っている様子が放送されていました。学校で災害について話し合ったり、被災地の人々を思い何かメッセージを送ろうと行動してくれるその気持ちが大きな励みになるのではないでしょうか。その映像が一人でも多くの被災地の方々に届けば良いなと思います。

日本のニュースでも海外から見た日本については度々取り上げられていますが、カリフォルニアに住む日本人の友人からも日本人の礼儀正しさや忍耐強さについて報道番組で流れていたというメールが来ました。その内容は次のとおりです。

-----ABC、NBC、 CNNなど報道番組で日本人の礼儀正しさや忍耐強さ等々がニュースとなっていたことには日本人としてとても誇りに思い、日本国外の人達に日本人の良さを再認識して貰えて嬉しく思っています。その報道番組を見たのでしょう、普段無口なアメリカ人のクラスメイト達が私に“日本人は素晴らしい”と言ってくれたのはちょっと“うるうる”とくるものがありました。-----

日本から遠く離れた場所に住む友人も日本に家族はいますし、毎日ニュースを欠かさず見て、震災のことをとても気にかけています。また日本への一時帰国も考えていたそうですが、一旦はキャンセルをして航空チケット代の返金分を義援金として日本赤十字社へ寄付したとありました。

今回の震災のニュースをきっかけに東京に住む私にも多くのカリフォルニアの友人たちから励ましのメールが届きました。
-----とても心配しています。何かお手伝いできることはない?何か不足しているものはない?日本に何か送りたいのだけど。アメリカに来たら家に滞在して良いよ。日本のために祈り続けます。などなど-----
アメリカに住む友人たちは今回の震災の義援金のことについて色々と調べてくれて、Facebookの中で情報をシェアしています。一人一人ができることは小さく限られているかもしれませんが、きっと誰かを助け励ましていることでしょう。

関東地方では物品の買いだめや原発に伴う放射性物質と水の問題など、今後も長期に渡り困難な状況が続くであろうと考えられます。情報を慎重に受け止めて、どのように対処すれば良いかを考えて行動しなければいけません。

私の友人の親戚が岩手県の陸前高田市と大船渡市の奥地に住んでいるそうですが、道が通行止めでバスが通らず、家から街へ出ることができない状況だそうです。その土地へは物資も運ばれないので、残り少ない食料や生活用品の在庫に焦りと苛立ちを感じているそうです。地震の前に来ていたヘルパーさんも来ることはできません。ガソリン不足も深刻な状況です。交通事情の困難な東北地方へは東京からは迎えにも行けず、町役場に問い合わせをしても人手が足りず、それでも順番に対応してくれるのを待つしかない状況なのだそうです。このままでは危険な状況に陥ってしまうかもしれないと思うと胸が痛みます。

この震災がもたらした被害の爪あとは一体どこまで広がっていくのか…不安の続く毎日ですが、こういうときだからこそ、しっかりと地に足をつけて生きたいと思います。

2011年3月20日日曜日

Japan Earthquake Experience on March 11th, 2011

Summary:We had a 9.0 magnitude earthquake on March 11th, 2011 in northeast Japan. The mega tunamis affected us a tremendous disaster. I was in Tokyo, but I never felt such a huge earthquake. My house was a mess. After a week later, we still feel middle size aftershocks everyday.
When the earthquake happened, my husband couldn't come home because all of the trains stopped. I was so nervous and had some fear at the same time.
Also we couldn't use phones or cellphones. However, I could use e-mails and facebook from my iPhone, so my friends encouraged me a lot on the internet.
Please pray for Japan to restore as soon as possible.

今回の甚大な災害について、ご家族を失くされた被災者の方々に寄せる言葉さえも見つかりません。一日も早い復興を切に願うばかりです。
被災地からは遠く離れた東京での小さな経験に過ぎませんが、大地震発生から一週間が過ぎようやく気持ちが落ち着いて来たので、今後また起こりうるだろう災害のためにその記録をここに残したいと思います。

小学生の頃に担任の先生から聞いた1923年9月1日の関東大震災(M7.9)の話は今でも強く印象に残っています。関東大震災から約88年後の2011年3月11日午後2時46分、それが身近で現実のものとなりました。当時、60年に一度、関東地方を中心に大地震があると騒がれていましたが、その日がやって来たのは、30年近く経ってのことでした。

Messy Room
マンションの10階部分にいた私が最初の揺れを感じたときは、何時もの震度2〜3程度かなと思っていましたが、小刻みな揺れから、次第に揺れが強くなり始め、めだかの入っているガラスの鉢の中から水がチャポチャポ飛び出すのを見て、「今回のは大きい!」と思いました。ややパニックになっていた私はどんな行動をしたのかはっきりとは思い出せないのですが…家全体がギシギシ音を立て、まるで大きな船に乗っていてそれが波に揺さぶられるかのような大きな揺れでした。

いつもの地震以上に長く感じた揺れが収まったので、とにかくテレビで今の地震の情報を得ようとしました。その時点の報道では、M8.8(後にM9.0に修正)、宮城で震度7、東京23区は震度5弱(一部では震度5強)でした。でも10階での揺れ方は、体感だと震度5弱を上回る大きさだったと思います。

咄嗟に娘のことが心配になりました。この地震の3分ほど前に、娘は小学校の公衆電話から「学校で放課後遊びをしても良い?」という電話をかけてきたところで、クラスのお友だちの何人かも一緒に学校に残っていることはわかっていたので、とにかく無事だろうと思いました。このときには、まだ周囲の被害状況もわからなかったのですが、部屋の電気はついていて建物自体は無事だったこともあって、娘はいつものように帰って来るものだと考えていました。

散らかった家の中を片付けようとしていると、3時15分頃、次の地震が襲って来ました。2度目も感覚としては1度目と同じように強く揺れました。ニュースでは茨城県でM7.4、震度は6弱、東京は震度4程度のようでしたが、1度目と同様にギシギシという音とともに揺れを感じました。さすがに2度続けてともなると恐怖感と高揚感で、食器棚を押さえながら「お願い、止まって!!」と叫んでいました。

もちろん、こんなに大きな揺れをしかも2度続けて体験したのは人生で初めてのことです。リビングに居た私は、置き時計や写真立てが落ち、立てかけてあった絵が倒れ、ワインが棚からゴロゴロと転がりあっという間に落ちて行くのを見ました。キッチンでは、冷蔵庫の上にあったケーキ型などの軽いもの、食器棚の上のシリアルの箱など、落下しても比較的安全なものばかり落ちたのですが、冷蔵庫はドアが開き、もう少しで中身が出るというところでした。キッチンの上には、たまたまブリタの容器に水を入れたままで置いてあったので、それが見事に床へ落ち水が流れ出してしまいました。

一旦、揺れが収まったので、この2度の突発的な惨事に唖然としていたものの、すぐに娘のことが頭に思い浮かびました。「これは迎えに行かなければ。」と思い、娘と一緒に遊んでいたはずのお友だちのママに電話をしてもつながりません。携帯でメールも送ってみましたが、返事は来ませんでした。

ニュースではすぐに東北地方を始め広範囲で大津波警報が出ていました。またお台場のすぐ近くで火災が発生している様子がテレビで流れたので、家から見える範囲では火災が起こっていないか窓から確認しましたが、幸いなさそうでした。

洗面所は一部で引き出しが開いて、中身が飛び出していました。家具は倒れませんでしたが、箪笥の上の小物は床に飛び散っていました。比較的軽い姿見は最初の地震で簡単にバタンと倒れる音がしましたし、やや重量のあるゴルフバッグも2つとも見事に倒れていました。
娘の部屋に行ってみると、部屋中に本棚の中の本類が散らばっていました。本棚自体は特に下半分が重いので、倒れなかったようです。それでも、本棚は20cmくらい前にずれ、寝室のダブルベッドもやはり20cmくらい前にずれて、食器棚は真横に15cmくらい動きました。一番軽いCDラックはガタガタしていて、薄型のテレビ(42インチ)もいつ倒れてもおかしくはなかったのですが、本当に無事でよかったと思いました。ちなみにテレビにはテレビ台はなく床に直置きしています。

Fire-King
所々、落下物によって床に傷は出来たものの、壊れたのはFire-Kingのジェダイのバターカップだけでした。コーヒーテーブルの下の飾り棚部分に置いてあったものですが、下から15cmほどのガラス棚から床にドスンと落ちてしまい、残念ながら真っ二つに割れてしまいました。
食器棚の食器やキッチンの備え付けの棚に入っているグラス類は幾つか傾いてはいたものの、破損はありませんでした。本当にラッキーでした。
最後にトイレへ行ってみると、タンクから水がこぼれ出ていて床が濡れていました。

後日、同じマンションに住む方々と話をしましたが、同じフロアの方は、ガラスの食器棚が倒れて壊れてしまい、本棚も倒れたそうです。下の階の方も家具が倒れたそうです。またゴミ捨て場には割れた食器がたくさん捨ててあったので、我が家よりも被害の大きかった人も多くいたようでした。他のマンションでは、冷蔵庫やテレビが倒れたという話も聞きました。

たまたま住んでいる部屋の向きで揺れの方向が違ってくるので、家具の倒れ方にも違いがあったのかもしれません。もしくは我が家の食器棚にはびっしり食器が入っていて、普段から棚が弓なりに曲がるくらい重かったのが良かったのかもしれません。地震のときは、危険のない程度に出来る限り食器棚の扉が開かないように押さえていました。これが震度6以上だと、恐らく自分自身が立っていられないので、食器棚から食器が出てしまったり、本棚が倒れてしまうことがあったかもしれません。

揺れが落ち着いて、取り急ぎキッチンの床にこぼれた水やめだかの水槽から出た水を拭いて、急いで娘を小学校まで迎えに行くことにしました。でもこの間も余震のことが気になり、とても不安でした。友人に電話をかけても通じません。携帯電話ばかりでなく固定電話もかかりませんでした。もちろん、メールの送受信もできませんでした。

娘を無事、小学校で引き取ることができたものの、夜間、急な停電やガスが使えないといけないので、多少の食料品や水を買ってから帰宅しました。エレベーターは自動停止していたので、非常階段で両手に荷物を持ちながら上がりました。

夕方には携帯のメールが使えるようになり、夜6時過ぎに固定電話は復旧していました。
両親からは夜に連絡が取れました。私の両親は新宿にいたので、そこから2時間かけて歩いて帰宅したと電話で連絡がありました。
日頃からウォーキングを心がけている60代後半の両親は、まさかの災害時のことをも想定していたので、怪我もなく歩いて帰ることができたようです。

両親の家は3年くらい前に耐震工事を済ませていたので、物が落ちたり倒れるといった被害が全くなかったそうです。2階建ての家屋で、物はたくさんありますが、こんなにも被害の状況が違うのだということが分かりました。

その日、夫は年に数回あるかないかの大船(神奈川県横浜市)での研修に行っていました。テレビでは電車が全線不通となり、無理な帰宅をしないで会社に留まるようにと報道しています。そのとき、夫は今晩は帰宅できないだろうなと思いました。大船から自宅まで40kmはあります。途中、多摩川などもあり、とても歩いて帰る距離ではありません。通常のオフィス勤務だったら、家から約7kmのところにあるので歩いて帰れたと思うのですが。。災害時にそれぞれがいた場所で、家族がすぐに会えるかどうかが決まってしまうのだと実感しました。

大船駅で帰宅難民となった夫は、一晩を鎌倉芸術館で過ごしました。毛布が支給されて、廊下の椅子で休んだそうです。しかも最初の3時間くらいは停電していたそうです。翌朝7時に電車が動き出し一斉に帰宅ラッシュが始まったそうです。自宅に帰って来たのは、地震発生時から21時間が経過していました。

Traffic Jam
 車による渋滞は深夜まで続いていました。自宅からは首都高速を眺めることができるので、いつもとは違う状況がはっきりとわかりました。車はゆっくりと前に進み、ずっと先までライトが光っていました。都内にいた人でも、夕方3時半に出て夜11時半に帰って来たと話していました。

余震が頻繁に続く中で、娘と一晩を過ごすのはとても不安でした。結局、一晩中テレビを見ながら、うとうとしていたものの熟睡することはありませんでした。

午前3時59分、再び強い揺れで目が覚めました。長野でM6.6、震度6強でした。東京は震度3程度だったと思いますが、まだ夜の明けない時間帯の地震は恐怖です。3度目ともなると、日本列島がどうにかなってしまうのかという新たな不安を感じました。

テレビで刻々とわかってきた震災や津波の状況、地震の発生メカニズムなど、見ているだけでも恐怖でした。そんな中、私を助けてくれたのは、e-mailとFacebookでした。

iPhoneを利用しているので、携帯の電波が届いている限りインターネットには接続できます。たまたま娘を迎えに行く直前の3時46分頃にGmailを確認すると、カリフォルニアに住む日本人の友人から津波を心配するメールが届きました。誰とも連絡が取れていない私は、そのメールを見て少し気持ちが落ち着きました。
それから、iPhoneでFacebookにもカリフォルニアの友人たちからメッセージが届いているのも確認しました。しかも最初のメッセージを受信した時間は3時17分です。地震からわずか30分ほどのことでした。
両親や近所、それに東京にいる友人たちとも携帯メールでは連絡が取れない不安な状況だっただけに僅かながらも救われた気持ちがしていました。
夫とは夕方に一度、夫の会社のメールとGmaiを使って安否確認ができたので、一先ず安心をしていました。

夜になると娘は日中の気疲れからか、何時になく7時過ぎには眠ってしまいました。食事も取らず、何度起こしても目が覚めませんでした。私もニュースで徐々に分かってくる津波の様子を見ているだけで…もう胸が一杯一杯で…何も食べることはできませんでした。

それでもFacebookに大地震のことと夫が帰宅できない状況を載せると、すぐにアメリカの友人たちから安否を気遣うコメントが帰ってきました。そのやり取りが、私の不安と恐怖をいくらか取り除く助けになったと思います。それはGmailを使ってのメールのやり取りでも同様でした。

地震発生後、Facebookでアメリカ人の友人が日本のホストファミリーと電話連絡が取れないので、Facebookを通じて何とか連絡を取りたいとのコメントがありました。その2日後くらいには連絡が取れたとコメントがあったので、それを読んでほっとしました。

電気が通っていても固定電話がつながらない、しかも携帯電話はパンク状態でしたが、災害発生時にインターネットというもう一つのネットワークによって救われた部分が非常に大きかったです。こうした経験をした人は少なからずいると思いますので、新しい安否確認のための緊急ツールとなるかもしれません。こうした災害をきっかけに、今後のスマートフォンの普及を後押しするのではないでしょうか。

2011年3月11日金曜日

Japanese White Day is our Wedding Anniversary

Summary:We have an event called White Day on March 14th besides Valentine's Day. White Day is to return sweets like cookies, chocolates, candies, marshmallows or cakes when he receives chocolates from someone else on Valentine's Day. But he needs to gift his lover something else like an accessory besides sweets. It is one of Japanese cultures which came from confectionery industry to sell chocolates and candies much more.

Japanese like to give gifts from their trip. However we like to return gifts (okaeshi) to them when we go on trips. I think it is besed on Japanese considerateness to our friends.

By the way, our wedding anniversary is March 14th. We don't need White Day since our wedding.
We went to Napa Valley as our 10th anniversary. It was a wonderful anniversary with “sweet my daughter” even though my husband didn't give me “sweet 10 diamonds”.


Robert Mondavi Winery
March, 2008
 日本では、2月14日のバレンタインデーに対して、3月14日にホワイトデーがあります。一方、アメリカの3月14日は特別なイベントの日ではないですし、バレンタインデーのお返しをするという考えはありません。
今頃は、バレンタインデーでチョコレートをもらった(もらってしまった)のでお返しをしなければならないというプレッシャーを感じている方々が多くいるかもしれません。

今年のバレンタインデーの日、夫は珍しくどこからかチョコレートをもらって来ました。お返しはどうするのかな?と何となく気にかけてはいますが。 アメリカに住んでいる間は、バレンタインデーで他人からチョコレートなどをもらったことはなかったので、お返しの習慣のことなど考えているのかどうか…ところで、このお返しをしなかった場合、「義理チョコ」をもらった夫は「不義理」のレッテルを貼られてしまうのでしょうか。。
しかもホワイトデーはもらったチョコレートの2倍や3倍返しでという話もあるそうで、不景気なご時勢に巷ではまだまだ景気の良い話が飛び交っていることにも驚きです。でも実際のところはどうなのでしょうか。。

頂き物にお返しをする習慣は日本独特の考え方のようです。状況にもよると思いますが、アメリカでは日常で物をもらったりあげたりする習慣はあまりないようです。特にお土産という考え方はないようで、日本人のようにお土産を頂いたので、またお土産でお返しをする…ということはありませんでした。でも私にとってお土産を頂くことは、どんなものでも嬉しいですし、旅先ではいつも友人のために何かないかなとお土産を探して買って帰ります。そもそも、自分のためにも人のためにも、お土産探しが好きなのだと思います。

8才の娘がバレエ教室でいつもお友だちからキャンディーをもらうので、「今日はお返しを持って行く。」といってキャンディーを用意していました。本当はキャンディーそのものを持って行くことが良いのか考えてしまうところですが、子供社会で生きていく彼女なりの友好の証なのかもしれません。

ある日、Baby Shower*に参加しました。妊婦さんはたくさんのギフトをもらいますが、そのお礼に何かの物でお返しするのではなくて、後日、直筆で感謝の気持ちが書かれた“Thank you card”が郵送されて来ました。きっとBaby Showerに来てくれた全員にカードを送ったのだと思います。
日本の出産祝いに対しての内祝いの考え方とは異なりますが、これがアメリカ人のお返しの仕方だと思いました。

ところで、3月14日は私たちの結婚記念日でもあります。そのため、ホワイトデーは結婚して以来、毎年結婚記念日としてお祝いしています。プレゼントはなくても、週末に旅行へ出かけたりレストランで食事をしています。

あるときFacebookでアメリカ人の友人が、「結婚記念日の朝に目が覚めると、枕元にティファニーの箱が置いてあったのよ!!」とコメントしていました。映画のワンシーンのような、現代版のディズニーストーリーのようなその内容に感動し、私はすぐにそのことを夫に伝えました。といっても、残念ながら我が家では起こり得ないことです。。

私たちは数年前に結婚10周年を迎えました。娘は5才を過ぎた頃で、そろそろワイナリー**へも行ってみたいなと思っていたこともあり、ナパバレー“Napa Valley”へ行くことにしました。私たちの訪れたロバート・モンダヴィ・ワイナリー“Robert Mondavi Winery”は、美術館のように素敵な建築で、アートギャラリーや彫像が至る所に置かれていました。

残念ながら、アルコールに強くない私はワインの知識は乏しいのですが、実際にティスティングをしてみると、葡萄の種類で味が違うことが良く分かりました。ワインが嫌いなわけではないので、アルコールに弱いという体質であることがとても残念です。でも、雰囲気だけでも味わえたことは良い思い出となりました。

娘にとっては、遊具などなく、もちろんワインを飲めるわけではないので、ワイナリーの敷地内をぐるぐる走り回っていただけでした。このような状況を見ると、ワイナリーには子供はほとんどいませんし、初めからアメリカ人たちは子供を連れていかないということが分かります。家族用にピクニックエリアのあるワイナリーもあるそうなので、そういう場所を選ぶと家族で出かけやすいようです。

ナパを通る一本道の脇をワイントレイン“The Napa Valley Wine Train”が走っています。私たちはワイントレインには乗車しませんでしたが、いつかは乗ってみたいなと思います。
3月はカラシの黄色い花が一面に咲いていて、ドライブ中にも眺めることはできますが、列車の中からだとまた違う気分で美しい景色を堪能できるかもしれません。3月の気候は少し寒いですが、春らしい季節でした。

ダウンタウンではフェスティバルが開かれていたので、そこでワイン以外にも食べ物を買ったり食べたりすることができて、ライブ音楽も聴くことができました。イベントなどの予定を確認してから、ワイナリーを訪れても楽しいのではないかと思います。

宿泊先は、“River Terrace Inn Napa”でした。建物の裏側に川が流れていて、川の傍のテラス席で朝食をとりましたが、朝からとても清々しい気分になりました。

ずっとナパへ行ってみたいという願いがようやく叶い、素敵な結婚10周年記念になりました。
夫からの“Sweet 10 Diamonds”のサプライズギフトはありませんでしたが、“Sweet My Daughter”と一緒に迎えられたことが何より嬉しくて幸せなことです。

*Baby Shower:赤ちゃんが生まれる直前の妊婦さんのために家族や友人たちで開くパーティーのこと

**ワイナリー:ブログ“食欲の秋を求めて”を参照

2011年3月6日日曜日

Disney Princesses and Japanese Kimono Princess

Summary:We had a 2nd birthday party with my daughter's friends. It was our first time to have a big birthday party for her. The girls wore  Disney princess dresses, but I gave a pink kimono for her, because she had a typical Japanese face and I thought kimono was better than dresses for her. Also, this was a nice presentation to show a part of Japanese traditional costume.
I had some new experiences at the party like a huge birthday cake and pinata. We were so happy to join the party, because we just moved from Japan about 7 months ago.
When my daughter was 2-year-old, she was very shy, after the party, she was changing to be an active girl.

The Princesses
March, 2005
娘が2才になって、アメリカで初めてのお誕生日会をプリスクールで仲良しの女の子たちと合同で開くことになりました。
渡米してから約半年後に、2才の娘のお誕生日会をすることは考えていなかったのですが、友人のHeidiからの提案で、生まれ月の近い女の子たち5人とその家族が集まって、San JoseのMurdock Parkで行うことになりました。
お誕生日会を公園で開くというのは、とても新鮮でした。もちろん、私自身にそのような経験はありませんので全く初めての試みです。

娘の誕生日は12月30日、他の4人の女の子たちは偶然にも2月生まれでした。カリフォルニアの冬は雨期で気候が不安定なため、3月最初の土曜日に行うことになりました。そもそもどういう感じで子供のお誕生日会をすれば良いのか、初心者の私はHeidiや他のママたちに準備のほとんどをお任せしてしまいました。

アメリカの子供のお誕生日会にはテーマがあり、Birthday GirlまたはBoyが好きなキャラクターやお誕生日会でやって欲しいことを両親が用意してあげることが多いようです。パーティーは多くの人が自宅で開きますが、公園や子供向けの施設を利用することもよくあります。娘は実に数多くのお誕生日会に招待されました。これらの楽しい体験談はまた別の機会にお話したいと思います。多いときには、週に2度呼ばれることもありました。

2才のバースデーパーティーのテーマは“Princess”ということで、ママたちは女の子たちのためにプリンセスのドレスを用意することになりました。みんなきっと洋風のドレスが似合ってかわいいだろうなと考えた私は、娘には着物を着せて「“Japanese Princess”で対抗しよう!」と考えました。どう見ても2才の娘は洋風のプリンセスには程遠い典型的な日本人顔だな…と思ったからです。

前日にCostcoでバースデーケーキを買うことになり、私も初めて連れて行ってもらいました。平日にも関わらず、その巨大な敷地の駐車場がほとんど満車に近いことに驚きました。巨大倉庫を間近に見て、「さすがアメリカだ〜。」ととても感心しました。そこに売られているバースデーケーキは初めて見る巨大サイズで、にも関わらず値段が確か15ドル前後くらいだったことにもまた驚きました。パーティーには5家族+友人などで合計20人以上はいたと思いますが、全員に切り分けても余るくらいでした。

お誕生日会当日は、子供たちが遊ぶために“Bounce House”も用意してあったので、みんな中に入ってジャンプをしながら楽しそうに遊んでいました。小さな子供たちにとっては、広くて遊具の充実した公園は、自由に思いっきり遊べて一番適していたのではないかと思います。




いよいよ子供たちは、プリンセスドレスを着て登場です。娘は大好きだった色がピンクだったのでピンク色の着物で登場しました。やっぱり日本人は着物姿のお姫様がかわいいはず…という親の気持ちを知るはずもなく、2才の娘は日本人らしいとてもシャイな性格だったため、なかなかみんなの輪に入ろうとはしませんでした。誰かが持って来たてんとう虫の模様の入ったボールを両手でしっかり持ったままじっとその場に立っていました。娘も主役の一人とはいえ、状況が把握できずに周りの様子をただじっと伺っているようでした。

ピンクの着物の評判はとても良く、初めてアメリカで日本らしい文化を紹介することができたと思いました。お誕生日会を開くことが決まったときに、義理の母が着物を日本から送ってくれたおかげで、私たちにとっても良い思い出として残っています。

しかし5人揃っての写真撮影を何とか終えると、まだ2才になったばかりのお姫様たちは、すぐにドレスを脱いで公園内の遊具へと駆け出して行きました。

アメリカのパーティーの定番であるピザを食べて、バースデーケーキの前に子供たちを並んで座らせて、全員でバースデーソングを歌いました。ろうそくを吹き消す前にアメリカでは、“Make a wish!"と言い、願い事を頭に思い浮かべます。これはとてもロマンティックな習慣だと思います。

お腹がいっぱいになったところで、Karenがピニャータ“Pinata”を用意してくれました。ピニャータはこのとき初めて見たのですが、オリジナルはメキシコで、お祭りやお誕生日会でよく使われるそうです。以来、あちこちのパーティーで見る機会がありましたが、何時でも子供たちに大人気です。


くす玉のような入れ物にたくさんのキャンディーや小さなおもちゃを詰め込みます。木に吊るして、それを子供たちが順番にバットのような棒で叩いて、外側が壊れて中身が出てきたら、一斉に子供たちがそれを拾い集めるのです。
ピニャータは、その遊び方がとても衝撃的でした。叩いて食べるということでは、日本のスイカ割り*に近いかもしれませんが、もっと豪快な感じです。


プリンセスお誕生日会は目にするもの全てが目新しく、日本から来たばかりの娘も参加させてもらえたことはとても嬉しかったですし、今でもとても印象に残っているパーティーの一つです。最後には娘もその場に慣れて、とても楽しそうに公園で遊んでいました。

このグループでのお誕生日会は、翌年も開きました。もう一人、4月生まれの女の子も一緒に加わり、さらに賑やかで楽しいお誕生日会になりました。そのときのテーマは“Animal”でした。

その年は雨が多く、外ではできなかったため、結局友人のKatjaの家で開くことになりました。彼女はお掃除好きでとても広くて綺麗なお宅ですので、まだコントロールの効かない年齢の子供たちが部屋を汚すことをとても心配したのですが、快く引き受けてくれたので、無事にお誕生日会をすることができました。

バースデーケーキは、日系のケーキショップのSatura Cakesでオーダーしました。Saturaはシリコンバレーで日本風の美味しいケーキが食べられるお店です。スポンジが軽くて、甘すぎず、見た目も素敵なバースデーケーキでした。

2度のお誕生日会を経験したことで、たくさんのノウハウを得られたので、翌年からは自分たちでお友達を招いて娘のお誕生日会を開くようになりました。
娘は幼なすぎてほとんど覚えてはいないかもしれませんが、お友達と一緒にお祝いしてもらえたことは、きっと彼女の心の奥底に残っていると信じています。このような経験を積むごとに娘も徐々に明るく活発な性格に変わって行きました。
アメリカで知り合った友人たちが、右も左もわからないまま不安な気持ちで引越して来た私たち家族を仲間に入れてくれたことに今でも感謝しています。

*スイカ割り:Suika wari is to split a watermelon with a wooden stick like baseball bat at summer event or on the beach. He/She has to walk blindfold about 5m(20 inches). Other people who are watching the game give some words him/her like walk straight, almost there, hit and so on… After splitting a watermelon, everyone can eat a piece of watermelon.