2011年3月20日日曜日

Japan Earthquake Experience on March 11th, 2011

Summary:We had a 9.0 magnitude earthquake on March 11th, 2011 in northeast Japan. The mega tunamis affected us a tremendous disaster. I was in Tokyo, but I never felt such a huge earthquake. My house was a mess. After a week later, we still feel middle size aftershocks everyday.
When the earthquake happened, my husband couldn't come home because all of the trains stopped. I was so nervous and had some fear at the same time.
Also we couldn't use phones or cellphones. However, I could use e-mails and facebook from my iPhone, so my friends encouraged me a lot on the internet.
Please pray for Japan to restore as soon as possible.

今回の甚大な災害について、ご家族を失くされた被災者の方々に寄せる言葉さえも見つかりません。一日も早い復興を切に願うばかりです。
被災地からは遠く離れた東京での小さな経験に過ぎませんが、大地震発生から一週間が過ぎようやく気持ちが落ち着いて来たので、今後また起こりうるだろう災害のためにその記録をここに残したいと思います。

小学生の頃に担任の先生から聞いた1923年9月1日の関東大震災(M7.9)の話は今でも強く印象に残っています。関東大震災から約88年後の2011年3月11日午後2時46分、それが身近で現実のものとなりました。当時、60年に一度、関東地方を中心に大地震があると騒がれていましたが、その日がやって来たのは、30年近く経ってのことでした。

Messy Room
マンションの10階部分にいた私が最初の揺れを感じたときは、何時もの震度2〜3程度かなと思っていましたが、小刻みな揺れから、次第に揺れが強くなり始め、めだかの入っているガラスの鉢の中から水がチャポチャポ飛び出すのを見て、「今回のは大きい!」と思いました。ややパニックになっていた私はどんな行動をしたのかはっきりとは思い出せないのですが…家全体がギシギシ音を立て、まるで大きな船に乗っていてそれが波に揺さぶられるかのような大きな揺れでした。

いつもの地震以上に長く感じた揺れが収まったので、とにかくテレビで今の地震の情報を得ようとしました。その時点の報道では、M8.8(後にM9.0に修正)、宮城で震度7、東京23区は震度5弱(一部では震度5強)でした。でも10階での揺れ方は、体感だと震度5弱を上回る大きさだったと思います。

咄嗟に娘のことが心配になりました。この地震の3分ほど前に、娘は小学校の公衆電話から「学校で放課後遊びをしても良い?」という電話をかけてきたところで、クラスのお友だちの何人かも一緒に学校に残っていることはわかっていたので、とにかく無事だろうと思いました。このときには、まだ周囲の被害状況もわからなかったのですが、部屋の電気はついていて建物自体は無事だったこともあって、娘はいつものように帰って来るものだと考えていました。

散らかった家の中を片付けようとしていると、3時15分頃、次の地震が襲って来ました。2度目も感覚としては1度目と同じように強く揺れました。ニュースでは茨城県でM7.4、震度は6弱、東京は震度4程度のようでしたが、1度目と同様にギシギシという音とともに揺れを感じました。さすがに2度続けてともなると恐怖感と高揚感で、食器棚を押さえながら「お願い、止まって!!」と叫んでいました。

もちろん、こんなに大きな揺れをしかも2度続けて体験したのは人生で初めてのことです。リビングに居た私は、置き時計や写真立てが落ち、立てかけてあった絵が倒れ、ワインが棚からゴロゴロと転がりあっという間に落ちて行くのを見ました。キッチンでは、冷蔵庫の上にあったケーキ型などの軽いもの、食器棚の上のシリアルの箱など、落下しても比較的安全なものばかり落ちたのですが、冷蔵庫はドアが開き、もう少しで中身が出るというところでした。キッチンの上には、たまたまブリタの容器に水を入れたままで置いてあったので、それが見事に床へ落ち水が流れ出してしまいました。

一旦、揺れが収まったので、この2度の突発的な惨事に唖然としていたものの、すぐに娘のことが頭に思い浮かびました。「これは迎えに行かなければ。」と思い、娘と一緒に遊んでいたはずのお友だちのママに電話をしてもつながりません。携帯でメールも送ってみましたが、返事は来ませんでした。

ニュースではすぐに東北地方を始め広範囲で大津波警報が出ていました。またお台場のすぐ近くで火災が発生している様子がテレビで流れたので、家から見える範囲では火災が起こっていないか窓から確認しましたが、幸いなさそうでした。

洗面所は一部で引き出しが開いて、中身が飛び出していました。家具は倒れませんでしたが、箪笥の上の小物は床に飛び散っていました。比較的軽い姿見は最初の地震で簡単にバタンと倒れる音がしましたし、やや重量のあるゴルフバッグも2つとも見事に倒れていました。
娘の部屋に行ってみると、部屋中に本棚の中の本類が散らばっていました。本棚自体は特に下半分が重いので、倒れなかったようです。それでも、本棚は20cmくらい前にずれ、寝室のダブルベッドもやはり20cmくらい前にずれて、食器棚は真横に15cmくらい動きました。一番軽いCDラックはガタガタしていて、薄型のテレビ(42インチ)もいつ倒れてもおかしくはなかったのですが、本当に無事でよかったと思いました。ちなみにテレビにはテレビ台はなく床に直置きしています。

Fire-King
所々、落下物によって床に傷は出来たものの、壊れたのはFire-Kingのジェダイのバターカップだけでした。コーヒーテーブルの下の飾り棚部分に置いてあったものですが、下から15cmほどのガラス棚から床にドスンと落ちてしまい、残念ながら真っ二つに割れてしまいました。
食器棚の食器やキッチンの備え付けの棚に入っているグラス類は幾つか傾いてはいたものの、破損はありませんでした。本当にラッキーでした。
最後にトイレへ行ってみると、タンクから水がこぼれ出ていて床が濡れていました。

後日、同じマンションに住む方々と話をしましたが、同じフロアの方は、ガラスの食器棚が倒れて壊れてしまい、本棚も倒れたそうです。下の階の方も家具が倒れたそうです。またゴミ捨て場には割れた食器がたくさん捨ててあったので、我が家よりも被害の大きかった人も多くいたようでした。他のマンションでは、冷蔵庫やテレビが倒れたという話も聞きました。

たまたま住んでいる部屋の向きで揺れの方向が違ってくるので、家具の倒れ方にも違いがあったのかもしれません。もしくは我が家の食器棚にはびっしり食器が入っていて、普段から棚が弓なりに曲がるくらい重かったのが良かったのかもしれません。地震のときは、危険のない程度に出来る限り食器棚の扉が開かないように押さえていました。これが震度6以上だと、恐らく自分自身が立っていられないので、食器棚から食器が出てしまったり、本棚が倒れてしまうことがあったかもしれません。

揺れが落ち着いて、取り急ぎキッチンの床にこぼれた水やめだかの水槽から出た水を拭いて、急いで娘を小学校まで迎えに行くことにしました。でもこの間も余震のことが気になり、とても不安でした。友人に電話をかけても通じません。携帯電話ばかりでなく固定電話もかかりませんでした。もちろん、メールの送受信もできませんでした。

娘を無事、小学校で引き取ることができたものの、夜間、急な停電やガスが使えないといけないので、多少の食料品や水を買ってから帰宅しました。エレベーターは自動停止していたので、非常階段で両手に荷物を持ちながら上がりました。

夕方には携帯のメールが使えるようになり、夜6時過ぎに固定電話は復旧していました。
両親からは夜に連絡が取れました。私の両親は新宿にいたので、そこから2時間かけて歩いて帰宅したと電話で連絡がありました。
日頃からウォーキングを心がけている60代後半の両親は、まさかの災害時のことをも想定していたので、怪我もなく歩いて帰ることができたようです。

両親の家は3年くらい前に耐震工事を済ませていたので、物が落ちたり倒れるといった被害が全くなかったそうです。2階建ての家屋で、物はたくさんありますが、こんなにも被害の状況が違うのだということが分かりました。

その日、夫は年に数回あるかないかの大船(神奈川県横浜市)での研修に行っていました。テレビでは電車が全線不通となり、無理な帰宅をしないで会社に留まるようにと報道しています。そのとき、夫は今晩は帰宅できないだろうなと思いました。大船から自宅まで40kmはあります。途中、多摩川などもあり、とても歩いて帰る距離ではありません。通常のオフィス勤務だったら、家から約7kmのところにあるので歩いて帰れたと思うのですが。。災害時にそれぞれがいた場所で、家族がすぐに会えるかどうかが決まってしまうのだと実感しました。

大船駅で帰宅難民となった夫は、一晩を鎌倉芸術館で過ごしました。毛布が支給されて、廊下の椅子で休んだそうです。しかも最初の3時間くらいは停電していたそうです。翌朝7時に電車が動き出し一斉に帰宅ラッシュが始まったそうです。自宅に帰って来たのは、地震発生時から21時間が経過していました。

Traffic Jam
 車による渋滞は深夜まで続いていました。自宅からは首都高速を眺めることができるので、いつもとは違う状況がはっきりとわかりました。車はゆっくりと前に進み、ずっと先までライトが光っていました。都内にいた人でも、夕方3時半に出て夜11時半に帰って来たと話していました。

余震が頻繁に続く中で、娘と一晩を過ごすのはとても不安でした。結局、一晩中テレビを見ながら、うとうとしていたものの熟睡することはありませんでした。

午前3時59分、再び強い揺れで目が覚めました。長野でM6.6、震度6強でした。東京は震度3程度だったと思いますが、まだ夜の明けない時間帯の地震は恐怖です。3度目ともなると、日本列島がどうにかなってしまうのかという新たな不安を感じました。

テレビで刻々とわかってきた震災や津波の状況、地震の発生メカニズムなど、見ているだけでも恐怖でした。そんな中、私を助けてくれたのは、e-mailとFacebookでした。

iPhoneを利用しているので、携帯の電波が届いている限りインターネットには接続できます。たまたま娘を迎えに行く直前の3時46分頃にGmailを確認すると、カリフォルニアに住む日本人の友人から津波を心配するメールが届きました。誰とも連絡が取れていない私は、そのメールを見て少し気持ちが落ち着きました。
それから、iPhoneでFacebookにもカリフォルニアの友人たちからメッセージが届いているのも確認しました。しかも最初のメッセージを受信した時間は3時17分です。地震からわずか30分ほどのことでした。
両親や近所、それに東京にいる友人たちとも携帯メールでは連絡が取れない不安な状況だっただけに僅かながらも救われた気持ちがしていました。
夫とは夕方に一度、夫の会社のメールとGmaiを使って安否確認ができたので、一先ず安心をしていました。

夜になると娘は日中の気疲れからか、何時になく7時過ぎには眠ってしまいました。食事も取らず、何度起こしても目が覚めませんでした。私もニュースで徐々に分かってくる津波の様子を見ているだけで…もう胸が一杯一杯で…何も食べることはできませんでした。

それでもFacebookに大地震のことと夫が帰宅できない状況を載せると、すぐにアメリカの友人たちから安否を気遣うコメントが帰ってきました。そのやり取りが、私の不安と恐怖をいくらか取り除く助けになったと思います。それはGmailを使ってのメールのやり取りでも同様でした。

地震発生後、Facebookでアメリカ人の友人が日本のホストファミリーと電話連絡が取れないので、Facebookを通じて何とか連絡を取りたいとのコメントがありました。その2日後くらいには連絡が取れたとコメントがあったので、それを読んでほっとしました。

電気が通っていても固定電話がつながらない、しかも携帯電話はパンク状態でしたが、災害発生時にインターネットというもう一つのネットワークによって救われた部分が非常に大きかったです。こうした経験をした人は少なからずいると思いますので、新しい安否確認のための緊急ツールとなるかもしれません。こうした災害をきっかけに、今後のスマートフォンの普及を後押しするのではないでしょうか。

2 件のコメント:

  1. Oh, Wakana! I cannot imagine how scary that was for you!! Was Rion at school? The translation is a little hard to understand. I would be so scared!Please keep in touch!

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  2. My daughter was in school. I thought when we have a huge earthquake, there is no choice. We have to know how we could contact our family if there is an emergency situation.

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